私の韓流ヒストリー① 韓国との出会い編
古墳大好き少女、韓国に憧れる
韓流自分史サービスを始めることになった2019年、
自分の韓流自分史を、少しだけまとめたことがあります。
PCに眠っていた文章をブログにもアップしてみます。
この仕事をしているとよく、なぜ韓流を仕事にしているのか、と聞かれます。
もちろん、韓国が好きで、韓国を伝えることをライフワークに選んだからなのですが、
いつ、どうして韓国を好きになったか、を振り返ってみると、それなりのヒストリーがあったりします。
なぜなら、私は今から30年ほど前、小学生の時から、韓国が憧れの国だったからです・・・。
韓流雑誌の編集の仕事を始めたのは2002年、ワールドカップの日韓共催、
そしてウォンビンと深田恭子主演の「フレンズ」が放送された年です。
25歳の時でした。おそらく、この時期から韓流雑誌だけを専門にやってきた編集者は、
日本で数名しかいないはずです。
韓流が起きるほんの少し前に留学を終え、
駆け出しの編集者としてタイミングよくマスコミ業界に身を置いていたため、
その後の韓流の流れにうまく乗ることができたのでしょう。
編集やライティングの経験値は浅くとも、若さゆえのフレキシブルさとパワーが身を助けてくれたのです。
とにかく韓国が好きで、韓国を伝える仕事がしたい!
と思っているうちに、いつのまにか、韓流という社会現象が起き、
一日中、誰かを取材し、日本と韓国を月に何度も行き来する生活が訪れました。
あの時のあの年齢の自分でなければ、きっとあそこまで全力で動くことはできなかったでしょう…。
では、そんな私が、なぜ韓国へ興味をもたのか、30年前にいったい何があったのか…。
少し、振り返ってみることにします。
たしか小学4年生の頃だったと思います。
ある日、突然、古代史が大好きになりました。
はじめは、縄文時代、弥生時代に興味をもち、漫画で読める日本全国の遺跡発掘書をよく図書館で借りて読んでいました。
そのうち、飛鳥時代の古墳が大好きになり、たびたび家族に頼み、奈良に連れて行ってもらい、
明日香村をサイクリングしたり、歩いたりしながら、さらに歴史への想いを深めていきました。
「将来は考古学者になる!大学生になったら、奈良に住む!」と心に決め、
父の書斎にあった小難しい本を夢中で読んでいた記憶があります。
世紀の大発見といわれる高松塚古墳の壁画発見時は、まだ生まれていませんでしたが、
それに続く世紀の発見、キトラ古墳や藤ノ木古墳の発掘調査が世間をにぎわせた頃は、
新聞が読めるような年齢になり、朝日新聞に掲載される古墳発掘の記事を朝、ドキドキしながら読んでいたのを覚えています。
そのちに、あることに気がつきました。
壁画、副葬品、被葬者…。明日香の古墳が実に朝鮮半島とのつながりが深いこと。
そして渡来人という存在。
記事で読むたびに韓国という国への興味がふつふつと沸き、
いつか、韓国に行ってみたい!と、思うようになりました。
なかでも、藤ノ木古墳で発見された金の履が韓国の武寧王陵から出土した履とそっくりだという報道には胸が高鳴り、韓国語をマスターして、日韓共同発掘調査ができるような考古学者になりたい!と、ますます韓国熱を高めていったのを覚えています。
89年に発行され、大ヒットした「人麻呂の暗号」(藤村由加著/新潮社)もむさぼるように読み、
韓国語と日本語の深い関係にも衝撃を受けたものです。
当時、小学生だった私にとって、韓国が憧れの国になった決定的な瞬間でした。
私の韓流ヒストリー② 大学入学編
古都での生活、鞍馬寺でのアルバイト
小学生の時に古代史と出会い、渡来人という存在をきっかけに
韓国という国がすっかり憧れの対象になったわたし。
考古学者を目指したい気持ちから、親に勧められるままに、
地元、愛知県の6年一貫校に進学しました。
正直、勉強はあまり得意ではありませんでしたが、
考古学者になるには、とにかく大学にいかなくちゃいけないんだ!
という純粋な思いからw 中学受験。
ただ、やっぱり勉強が好きではにのは変わらず…
当時、超キツイといわれていた魔の陸上部に入り、
ひたすら走る6年間。
今の自分に繋がるこの体力は、まちがいなく、
このスパルタ陸上部で培われたものです。
そして、この6年間がなければ、
赤ちゃんを抱えてフリーランスで編集者を続けられていなかった、
つまり、今の自分はいないと思います。
そんなこんなで、
ひたすら走ってるだけの私を知る
中学高校時代の友人は、
私が編集者になった
という話にみんなのけぞります。
だって、
たった数百文字の
夏休みの読書感想文が書けなくて
友だちに1000円渡して、
代筆してもらっていたのですから…。
そんな秘密の暴露はさておき。
いよいよあとは大学に受かって、
奈良に住むぞ~!という年齢になりました。
結果、奈良には住めなかったのですが・・・
お隣、京都の大学に進学することになりました。
古代よりは少し時代は新しいですが、
古墳にかわって寺院仏閣に囲まれた生活もなかなか楽しいものでした。
歴史の息遣いを満喫しながら、考古学者を目指す楽しい大学ライフ。
ほんのちょっと歩けば、誰もが知る有名な神社仏閣を目にすることができ、
毎日がどきどきでした。
そして、ふらっと立ち寄った神社で、気になるあの国、
朝鮮半島とのゆかりを見つけてはワクワクし、
キムチ屋や韓国料理店などを見つけては、立ち寄っていました。
そしてアルバイト探し。
せっかく京都に住めたんだからお寺で働こう!と思い立ち、
タウンワークを手に片っ端からお寺に電話をかけ、アルバイトの申し込みをしました。
ところが、どのお寺も、お土産屋さんの一角での仕事ならあるとの回答。
でも私は接客ではなく、お寺の中にはいって、掃除をしたり、
文化財に触れられるような仕事がしたかったので、
それらはすべて断ることにしました。
そして、唯一、私が希望するような内容で受け入れてくれたのが鞍馬寺でした。
鞍馬山の頂上に位置する鞍馬寺。鞍馬天狗で有名なお寺です。
今でこそパワースポットの名所としてたくさんの参拝客でにぎわっていますが、
当時は、山奥のひっそりとした修行寺といった印象で、
登山シーズン以外はとても静か。
山の上にかかる霧と雲がその荘厳な雰囲気を醸し出し、
昔の人がここに神が住むと思ったことに納得したものでした。
私が住んでいた京都市中京区から、左京区のはずれ、鞍馬寺に行くのに1時間半。
日曜日の朝、6時半のバスに乗って叡山電鉄の始発駅、出町柳に行き、
そこから終点の鞍馬まで30分。さらに頂上のお寺まで徒歩30分。
いや~、本当に当時の自分はよくやったものです。若かった。パワーがあった…。
2018年の冬、大学を卒業して以来、はじめて鞍馬寺に行く機会がありました。
出町柳駅から鞍馬までのんびり30分。
これがすごくすごく長く感じたものです。
当時18歳だった自分が、1時間半もかけてこの道を通り、
アルバイトに通っていたのかと思うと、
その健気さに我ながら感心してしまいました。
今の自分にはとても考えられない行動ですが、
それだけ、夢への思いが深かったのでしょう。
さて、鞍馬寺では、当時、私をお世話をしてくださった方と
20年ぶりの再会を果たすことができました。
うっすらとですが、私のことを覚えていてくだいました。
その方が、お変わりなく元気でいらしたことが何よりもうれしく、
涙があふれてきました。
当時、歴史好きが高じて韓国留学を目指すようになった18歳の私。
そんな私をあたたかく受け入れ、人として謙虚に、
自然に感謝しながら生きることを教えてくれた鞍馬寺…。
ーーーー
私は無事、留学を果たし、卒業し、上京し、マスコミに入り、
韓国という国をライフワークにし、同じく韓国をライフワークとする夫と出会い、
ふたりの子供をもうけ、少し育児にひと段落して、
いま、20年ぶりに、こうして鞍馬寺にいます。
ーーーー
そんな話をすると、とても喜んでくださり、
匂い玉をお土産に手渡してくれました。
きっと、手ぶらでは帰したくない、何か持たせてあげたい、
そんな気持ちから、渡してくれたのでしょう。
帰り道に本堂のなかを見学すると、
鞍馬寺の補修工事に関する募金の張り紙を見つけました。
迷わず募金をしました。
ほんのわずかな金額でしたが、
自分がいま、好きな仕事をしながら家庭を築き、
元気に生きていられることの感謝の気持ちを少しは伝えられた気がして、
何より、ほんの少しだけ鞍馬寺に恩返しができた気がして、
なんともいえない熱い感情が沸き上がってきました。
私の韓流ヒストリー③ 韓国語授業編
本気の学習者がいない!? 先生を独占できちゃった。
小学生のときから韓国に憧れを感じていた歴史少女のわたしは、
18歳のときに京都の大学に進学。
ここで韓国語と出会い、韓国留学を実行します。
今回は、わたしの人生を決定づけた大学時代を振り返ります。
1996年、大学に入り、第二外国語を選択することになったわたしは、
ここで大きな幸運と出会います。
中国語、フランス語、イタリア語、ドイツ語と人気の語学が並ぶ中、
当時としてはまだ珍しく、韓国語を選択することができたからです。
文学部の友人たちが、どの語学にするか迷う中、
私は「これしかない!」と、迷わず韓国語を選びます。
1996年当時、第二外国語で韓国語を選択する生徒はほとんどいなく、
わずか6人の教室でした。
今思えば、それが韓国語を学ぶとてもよい環境でした。
ネイティブの先生と在日コリアンの先生、ここでいろんな先生方と出会うことができ、
さらには、韓国語を本気で勉強したい人があまりにも少なかったため、
その先生方をほぼ独占することができたのです。
覚えの悪い私を丁寧に指導してくださり、
いつのまにか、「発音がいいね」「韓国人みたい」とほめてもらえるようになり、
「もしかしたら、私、素質ある?」なんて、時に勘違いもしながら、
韓国語学習を楽しむようになりました。
どの先生もとても親切で、フレンドリーで、
家に招待してくれたり、辛ラーメンパーティを開いたりしたこともありました。
ある韓国人の教授の研究室に遊びに行くと、ふかし芋をくれたのも覚えています。
この、なんとも素朴なおやつに韓国人のあたたかさを感じたものでした。
先生との出会いで、韓国という国がどんどん好きになっていき、
1年生の夏休みは、交換プログラムを利用して高麗大学へ1ヶ月。
2年生の冬休みには個人で手続きをして、韓国外国語大学へ2ヶ月、留学しました。
そして、二十歳を過ぎて3年生になると、
やはり、きちんと1年間はソウルに住み、
本格的に語学を学んでみたい。
どうせなら、韓国語の文献をもとに卒論を書いてみたい、
とも思うようになり、
3年生の終了後に休学届を出し、
ソウルの延世大学の語学堂に1年間、留学することになりました。
この時、ネックになったのは、韓国での身元引受人です。
知り合いがいるわけでもありません。
そんなとき、手を差し伸べてくれたのも、韓国人の助教授でした。
韓国に住む助教授のお父様が、身元引受人になってくれるというのです。
ただ、いくら息子の教え子だとしても、お父様にとっては、
わたしは顔も知らない学生…。
そんなわけで、
「韓国で何か起こしてお父様にご迷惑をおかけした際は、私の父親が責任を負います」
という書面を日本の公証役場で証明してもらい、お父様に送ることになりました。
留学最大の壁、身元引受人をクリアできたおかげで、
延世大学に願書をだすことができました。
この頃、歴史を学んで考古学者になるという夢が少しずつ変化していき、
在日コリアンの人権問題、従軍慰安婦問題など、
日本人として避けてはならない社会問題のほうに興味が移っていきました。
大学にいた在日コリアンの学生たちの集まりにも積極的に参加し
、彼らの揺れるアイデンティティーに触れ、
ともに悩み、日韓関係の奥深さを肌で感じるようにもなっていました。
ただ、せっかく文学部に入ったので、
せめて大好きな博物館で働くことができるよう、
学芸員の資格だけは取ろうと決めていました。
今、考えると奇跡だったのですが、
4年生の時に学芸員の実習先として派遣されたのが、
京都で朝鮮半島の美術工芸品を展示している高麗美術館でした。
こちらの二代目館長は、上田正昭氏という著名な古代史学者。
朝鮮半島と古代史という2大キーワードが重なった
高麗美術館で
学芸員の実習が受けられたことにとても興奮したのを覚えています。
この時に書いた実習感想文は、学生を代表して全国の冊子に掲載されました。
この時、初めて、自分の好きなことを書いて人に伝えることの喜びを感じました。
幼い頃は勢いで「考古学者になりたい!」と言っていたわたしですが、
この博物館学芸員という仕事も、同じくらい狭き門であり、
学部卒で就職にあずかれるケースはほとんどありません…。
その現実の難しさを目のあたりにした私は、
「歴史」への夢が徐々に趣味レベルに下降していき、
反比例するかのように、
韓国という国を伝える仕事がしたいと思うようになっていました。
1年間のソウル留学を決めたのは、
ただ語学を習得したかったわけではなく、
韓国という国自体をもっともっと知りたいと思ったからです。
私の韓流ヒストリー④ 1999年ソウル留学編
シュリが公開! 街中ジャカジャカK-POP黄金期
1999年、大学3年生を終了した時点で休学届を出し、
いよいよ1年間、延世大学語学堂に留学することになりました。
同じ教室には、
母国語を学びにきた二十歳前後の在日コリアン、
外国語大学で韓国語学科を専攻する日本人学生、
人生をリセットするために来た社会人女性、
英語圏で韓国人と出会い結婚し、
相手の国の言葉を学びに来た日本人女性、
銀行や新聞社の駐在員
などなど、
さまざまな事情で日本からきた人がいました。
あまりつるみすぎると語学上達にはよくありませんが、
いざという時に日本語で話せる相手がいるというのは心強いものです。
何よりも、韓国留学という同じ目的をもった日本人との出会いは、
とても刺激的でした。
私は日本の大学で3年間、第二外国語として勉強してからの留学だったため、
中級レベルの3級から入学することができました。
ちょうど1年で卒業クラスまで履修することができ、
「卒業証書」を受け取ることができたのは、
その後、韓国語を使って仕事をするうえで大きな自信につながったと思います。
月曜~金曜まで朝9時から13時まで、4時間授業。
さすがは名門校だけあって、どの先生も教え方がうまく、
授業を苦痛に感じたことはありませんでした。
あえて言えば、学生時代の留学だったので、
勉強そのもにに対する渇望感や新鮮味はさほどなく、
机に座ることよりも遊ぶことに気が向いていたように思います。
でも、大学生という身分と戻る場所があるのは幸いで、
よく社会人をやめて留学にきた人から
「戻る場所があってうらやましい」
と言われていました。
もし今、ふたたび留学するならば、
限られた時間を意識し、もっともっと時間を有効に使ったことでしょう。
話は変わりますが、99年の韓国といば、
ちょうどあの名作映画「シュリ」が公開された年です。
映画館に足を運んだのが、ソウルに来てすぐだったため、
言葉は何が何だかわからずでしたが、
「祖国統一万歳!」と叫びながら自害していくあのシーンは、衝撃でした…。
下宿先のあった新村(シンチョン)の町は、
昼も夜も賑やかで、いつもどこかにジャンジャカとK-POPが流れていました。
なかでもコヨーテの「純情」は、ヘビーローテーションされていたおかげで、
もう、わたしの頭をぐるぐるぐるぐるメロディが・・・。
いつのまにかK-POP中毒になっていました。
当時は、まだカセットテープの時代で、
道端でリヤカーに積んだテープを売る行商人がたくさんいました。
1日でも聞かない日があると禁断症状になってしまうため(笑)、
帰国前にたくさん買いこみ、日本でもすり切れるほど聞き、
韓国の想い出に浸ったものです。
99年は、K-POPの黄金期と言われていて、
さまざまなグループアイドルが活躍して、
今の韓流の礎を築きました。
男性、女性グループにコヨーテのような混声グループもいて、
さらに、ソロ歌手もたくさんいました。
GOD、SHINHWA、SES、ピンクル、シャープ、
チョ・ソンモ、イ・ジョンヒョン、キム・ヒョンジョン、
オム・ジョンファ、カンチュリーコッコ、Y2K、ペク・ジヨン、イ・スンチョル・・・
ああ、本当に懐かしいです(笑)。
グループ歌手でいうえば、
今のようなスタイリッシュでカッコいいダンスやメロディとはちょっと違い、
どこか古くさくてベタなメロディで、
ダンスもちょっぴりダサくて……。
でもこれがなんとも味わいがあって、
昭和歌謡好きの私のオタク細胞をウズウズさせ、
一気に韓国歌謡の世界に魅了されていきました。
韓国エンタメジャンルの最初の出会いは、
映画「シュリ」でしたが、
最初にハマったのはK-POPだったといえます。
まだまだ、わたしにはドラマを楽しむほどの語学力はなく、
そして・・・ブラウン管のなかには自分好みのイケメンもいませんでした(笑)。
唯一、気になってチラ見していたのはリュ・シウォンとチェ・ジウ主演の「真実」です。
留学生活も半分過ぎた頃になると、語学力の上達に焦りを感じてきました。
だいたい半年目がスランプだとよく聞きます。
このまま日本に帰るわけにはいかない…そう思った私は、
学校以外では極力、日本語が通じない相手と過ごすことを決め、
残り半年を目いっぱい、語学学習のために費やしました。
長いようであっという間の1年。
名残惜しい気持ちがいっぱい…。
このあと待っているのは復学と卒論と就活。
大学の友人たちは一足先に卒業してしまったので、
誰もいない京都で一人でやっていけるのか、
急に孤独感に襲われ、帰国の日は、金浦空港で大泣きしてしまいました。
私の韓流ヒストリー⑤ 初めての韓ドラ編
『秋の童話』とその衝撃
今回は、いよいよ出会った韓国ドラマ。その忘れられない衝撃についてつづります。
1年間のソウル留学を終えて、復学し、京都で最後の大学生活を送ることになりました。
この時、私は、はじめてちゃんと韓国ドラマを見る機会が訪れます。
2000年9月に韓国で放送されてた「秋の童話」です。
ちょうど私の帰国直後に韓国KBSで放送されたドラマです。
私と入れ違いに留学した友人が韓国で『秋のドラマ』を見てハマったそうで、
日本に一時帰国した際、ビデオを貸してくれたのです。
「いまね、韓国でこんなドラマが放送されているんだよ。
なんか、すっごく続きが気になるんだよね~。
一回、見てみて!絶対ハマるから!」
と。
当時、K-POPは夢中で聞いていましたが、
留学中にドラマを見る機会はほとんどなく、
また、それが面白いものだという認識もありませんでした。
わざわざビデオを持ってきてくれたし、
そこまで言うなら見て見ようかな、と軽い気持ちで見ることにしました。
ところが…です。
生き別れ、
すれ違い、
貧富の差、
憎たらしいけどちょっとかわいそうな悪女、
薄幸のヒロイン、
昭和っぽい凛々しい眉毛のソン・スンホン、
そして韓国にはこんなイケメンもいたんだ!と新鮮な驚きを与えてくれたウォンビン。
なんて、面白いんでしょう!!
あのなんともはがゆい感覚は、幼い頃に見た、大映ドラマに近いものがありました。
「乳姉妹」「ポニーテールはふり向かない」
「少女に何が起こったか」「アリエスの乙女たち」
「スワンの涙」「花嫁衣裳は誰が着る」
「ヤヌスの鏡」
…80年代に見たドラマが走馬灯のように思い出されました。
ムン・グニョン演じる子役ヒロインのこれまた健気なこと。
ソン・ヘギョが醸す純粋無垢さ。
お兄ちゃん…妹溺愛の路線がちょっと気になる。
いくら出生の秘密はわかったといっても、
自ら産みの親の元に行くか!?!?
突っ込みどころ満載なのに、
一気に引き込まれ、まさに友人の言う通り、続きが気になって仕方なくなりました。
私はすぐ友人に連絡し、
最終回までのビデオをリクエスト。
次回、貸してもらえる日を心まちにしたものです。
そして、迎えた最終回では、
ええええええ~
という衝撃の結末。まさかまさか。
韓国ドラマって、なんか不思議! 面白い!
いや、めちゃめちゃ面白いんだけど・・・
でも、いま、どうにも気持ちが整理できない・・・。
こうしてしばらく余韻に浸り、
誰かとこのドラマの話ができたらいいな、と思ったものでした。
韓国ドラマって、見たら、誰かと無性に話したくなりませんか?
これは、この時の「秋の童話」だけでなく、その後も、その後も
どんな作品を見た後でもそうでした。
「あんなんあり?」「あそこ、よかったよね」
これが、韓流ファンのあいだにコミュニティが広まった理由ではないかと思っています。
話は戻りますが、この時、大学4年生だった私は京都で一人暮らしをしており、
絶賛、就職活動中。
1年間のソウル留学を終えたばかりでしたが、
この「秋の童話」にますます韓国が恋しくなり、
ああ、やっぱりもう一度、あの国に住みたいな…。
住めないなら、せめて、韓国の楽しさを伝えることができる仕事につきたいな…。
そんなふうに思うようになりました。
「韓国を伝えたい」
このキーワードが、自然とマスコミへの関心に変わっていきました。
私の韓流ヒストリー⑥ 仕事(新聞社)編
心に残る3つの取材
いよいよ、京都の大学を卒業し、就職で上京した仕事編に突入です。
私が東京にやってきたのは、2001年。
日韓ワールドカップ共催の1年前でした。
どこに就職したのかというと、韓国経済を専門に扱っていた新聞社です。
留学中から就職活動中まで、その新聞を2年ほど定期購読していた縁から、
運よく就職が決まりました。
ここでは、広告営業を中心に、映画やイベントの取材まで、
いろんな経験させていただきました。
社会のイロハはもちろん、東京の地理もまるでわからず、
地下鉄路線図を肌身離さず持ち歩きながら、
低いヒールの靴を履いて、毎日、たくさんの企業を訪問しました。
商社、貿易、運送、食品、飲食など、
韓国と取引のある、ありとあらゆる企業に挨拶しに行けたのは
新聞社の名刺があったおかげ。
いまの自分では、とうていできない経験をさせてもらえたと思います。
当時、「留学経験のある若き日本人女性」という存在そのものが重宝され、
企業の重役の方、なかでも在日コリアンの実業家さんには、
ずいぶんと珍しがられ、可愛がってもらいました。
食事をする機会も多く、人生相談に乗ってもらったことも
1度や2度ではありません。
でも、当時、24歳の私には、まだ何かを楽しむ余裕がなかったのが、
今思えば残念です。
ひたすら孤独で、つらかったのです…。
あの時、仲のいい友人がひとりでも近くにいたら、
また違っただろうなと思います。
そんななかで、その後、韓流専門編集者となるきっかけになった
取材が3つありました。
一つ目は、入社してすぐに映画「JSA」が公開されたため、
試写会のレセプションパーティーに連れて行ってもらい、
ソン・ガンホさんと直接、話ができたこと。
映画でみるよりも、とってもスマートでシュッとしていて、
小顔で若々しくて、
最初は一瞬、誰だかわからないくらいでした。
一緒に同行した記者さんが、気をきかせてツーショット写真も撮ってくれました。
世界のガンホさん、もう、いまじゃ、そんなお願い、無理でしょう・・・。
二つ目は、その秋に公開された映画「Go」で、主人公の在日コリアン役を演じた
窪塚洋介さんに囲み取材ができたこと。
すごく小さな会議室に、数人の記者で囲って、とても気さくな雰囲気でインタビューが
できました。俳優さんというのが、こんなにも、普通におしゃべりするんだと、
初めて知った瞬間でした。
ちょうど、9.11の直後だったこともあり、窪塚さんには政治的な質問が飛んでいました。
世界平和への思いを、語っていたのをかすかに憶えています。
三つ目は、世界的なオペラ歌手、スミ・ジョーさんに、コンサート当日の控室で、
単独インタビューできたこと。
(正確には、私は記者さんに同行しただけでしたが…。)
記者さんが、「すごい人に会えるのも勉強だよ」と、日曜日の取材に誘ってくれたのでした。
「すごい人(←当時は、あんましよく分かっていなかった…)」の楽屋に入れたのが
そもそも嬉しかったのですが、何よりも、
コンサートを控えたスターに、どんなことを聞くのが、本人にも、
読者にも望ましいのか、そんなことを考えるきっかけになりました。
また、「すごい人、スミ・ジョー」さんの、
韓国人としての誇り、オペラ歌手としての自信に満ち溢れたオーラはとても印象的で、
自信に満ち溢れることの素敵さを知った24歳でした。
そして、そんな頃、驚くニュースが耳に入ってきました。
私がVHSで見て、誰かと話がしたくてたまらなかった『秋の童話』が
まもなくMXテレビで放送されるというのです!
わたしが伝えたかったのは、
面白くてドキドキする
韓国のエンターテインメントだ。
そう思うといてもたってもいられなくなり、
気付いた時には、新聞社を辞め、
韓流雑誌を作っている会社の門をたたいていました。
(続く)