アンニョンハセヨ。編集長の野田です。
韓流ファンの皆様の個人ヒストリーを1冊の形にまとめるというサービス。まずは、私自身と韓国との出会いを振り返っているところです。
今回は、1999年のソウル留学編です。
大学3年生を終了した時点で休学届を出し、いよいよ1年間、延世大学語学堂に留学することになりました。
同じ教室には、母国語を学びにきた二十歳前後の在日コリアン、外国語大学で韓国語学科を専攻する日本人学生、人生をリセットするために来た社会人女性、英語圏で韓国人と出会い結婚し、相手の国の言葉を学びに来た日本人女性、銀行や新聞社の駐在員などなど、さまざまな事情で日本からきた人がいました。あまりつるみすぎると語学上達にはよくありませんが、いざという時に日本語で話せる相手がいるというのは心強いものです。何よりも、韓国留学という同じ目的をもった日本人との出会いは、とても刺激的でした。
私は日本の大学で3年間、第二外国語として勉強してからの留学だったため、中級レベルの3級から入学することができました。ちょうど1年で卒業クラスまで履修することができ、「卒業証書」を受け取ることができたのは、その後、韓国語を使って仕事をするうえで大きな自信につながったと思います。
月曜~金曜まで朝9時から13時まで、4時間授業。さすがは名門校だけあって、どの先生も教え方がうまく、授業を苦痛に感じたことはありませんでした。あえて言えば、学生時代の留学だったので、勉強そのもにに対する渇望感や新鮮味はさほどなく、机に座ることよりも遊ぶことに気が向いていたように思います。でも、大学生という身分と戻る場所があるのは幸いで、よく社会人をやめて留学にきた人から「戻る場所があってうらやましい」と言われていました。もし今、ふたたび留学するならば、限られた時間を意識し、もっともっと時間を有効に使ったことでしょう。
話は変わりますが、99年の韓国といば、ちょうどあの名作映画「シュリ」が公開された年です。映画館に足を運んだのが、ソウルに来てすぐだったため、言葉は何が何だかわからずでしたが、「祖国統一万歳!」と叫びながら自害していくあのシーンは、衝撃でした…。
下宿先のあった新村(シンチョン)の町は、昼も夜も賑やかで、いつもどこかにジャンジャカとK-POPが流れていました。なかでもコヨーテの「純情」は、ヘビーローテーションされていたおかげで、もう、わたしの頭をぐるぐるぐるぐるメロディが・・・。いつのまにかK-POP中毒になっていました。当時は、まだカセットテープの時代で、道端でリヤカーに積んだテープを売る行商人がたくさんいました。1日でも聞かない日があると禁断症状になってしまうため(笑)、帰国前にたくさん買いこみ、日本でもすり切れるほど聞き、韓国の想い出に浸ったものです。99年は、K-POPの黄金期と言われていて、さまざまなグループアイドルが活躍して、今の韓流の礎を築きました。男性、女性グループにコヨーテのような混声グループもいて、さらに、ソロ歌手もたくさんいました。
GOD、SHINHWA、SES、ピンクル、シャープ、チョ・ソンモ、イ・ジョンヒョン、キム・ヒョンジョン、オム・ジョンファ、カンチュリーコッコ、Y2K、ペク・ジヨン、イ・スンチョル・・・ああ、本当に懐かしいです(笑)。
グループ歌手でいうえば、今のようなスタイリッシュでカッコいいダンスやメロディとはちょっと違い、どこか古くさくてベタなメロディで、ダンスもちょっぴりダサくて……。でもこれがなんとも味わいがあって、昭和歌謡好きの私のオタク細胞をウズウズさせ、一気に韓国歌謡の世界に魅了されていきました。韓国エンタメジャンルの最初の出会いは、映画「シュリ」でしたが、最初にハマったのはK-POPだったといえます。まだまだ、わたしにはドラマを楽しむほどの語学力はなく、そして・・・ブラウン管のなかには自分好みのイケメンもいませんでした(笑)。唯一、気になってチラ見していたのはリュ・シウォンとチェ・ジウ主演の「真実」です。
留学生活も半分過ぎた頃になると、語学力の上達に焦りを感じてきました。だいたい半年目がスランプだとよく聞きます。このまま日本に帰るわけにはいかない…そう思った私は、学校以外では極力、日本語が通じない相手と過ごすことを決め、残り半年を目いっぱい、語学学習のために費やしました。
長いようであっという間の1年。名残惜しい気持ちがいっぱい…。このあと待っているのは復学と卒論と就活。大学の友人たちは一足先に卒業してしまったので、誰もいない京都で一人でやっていけるのか、急に孤独感に襲われ、帰国の日は、金浦空港で大泣きしてしまいました。
(私の韓流ヒストリー 初めての韓ドラ編に続く)